以前、このブログで、シベリウスについて「ベートヴェン以後、最大の交響曲作曲家のひとり」と紹介しました。
彼は100曲を超えるピアノ曲も残しており、3分に満たない小品が多いのですが、どれも祖国フィンランドの自然豊かな風景を連想させる繊細で美しい作品ばかりです。
特に有名な「樅の木」(作品75-5)は、「流れるようなアルペジオと美しいメロディラインは、北欧の大自然が生み出す神秘的な美しさを感じさせる」と言われています。
私は、シベリウスのピアノ作品を聴くときは、決まって舘野泉さん(たてのいずみ、1936年11月10日生まれ、以降敬称略)演奏のCDを選びます。

なぜなら、彼は20代後半の1964年にフィンランドに移住し北欧ピアノ音楽の第一人者として自他ともに認められており、シベリウスの魅力を知り尽くした彼の弾くピアノは、曲の素晴らしさを丁寧に語り掛けてくれるように私たちの心に響くからです。

ドイツやロシアの巨匠ピアニストでは引き出せない音の透明性を感じますから、是非皆さんもお聴きになってみてください。
今回のブログでは、ピアニスト舘野泉について、3つのエピソードを通じて、なぜ彼が88歳の米寿を迎えた今でも、世界的に活躍している現役男性ピアニストでいられるかについて考えてみたいと思います。
まず第一のエピソードは、東京芸大を1960年に首席で卒業し日本でデビューコンサートまで開催していたのに、なぜ1964年27歳の若さで、クラシック音楽の本場のドイツやフランスではなく、フィンランドという北の果ての国を留学先に選んだのか?です。
本人は、「北欧文学や風土への親近感が有り、北への憧れがあったから」と述べていますが、そんな漠然とした理由なはずは有りません。むしろ、これまでの彼の生きざま等を考えると私は、彼がクラシック音楽の伝統が強い国には行きたくなかったから、古い価値観に縛られるのが嫌だったから、という積極的な理由で、フィンランドを選択したように思います。そうでなければ、クラシック音楽の本場から遠いインド、ブータン、ネパールでコンサートを開催したり、60年も日本と行ったり来たりの生活を継続できるはずがないでしょう。
第二のエピソードは、なぜ彼がクラシックの演奏家で初めてファンクラブができたのか?です。
最近では、特に若いピアニストにファンクラブができるのは珍しくありませんが、1970年代はまだまだクラシック演奏家は手の届く範囲には存在していなかったように思います。
1972年の日本でのコンサートの時、プログラムを欲張り過ぎて最後の曲を演奏する時間がなくなってしまいました。そこで彼は思わず聴衆に「一週間後の午後に僕の家に来てくれれば自宅で弾きます」と宣言したそうです。
そうしたら当日280人もの客が訪れ家の前に列をなしたそうです。
そこで、一回では全員部屋に入りきれず、3回に分けて演奏し、これをきっかけにファンクラブが結成されたそうです。今でもファンクラブは国内は勿論海外にも存在しているそうです。
舘野泉の誠実な対応というのはファン、聴衆に対してだけでなく、マスコミやメディアに対しても分け隔てないようで、彼と接した人は決まって、彼の人柄に感銘を受け元気を貰うことが多いと言われています。
第三のエピソードは、2002年脳出血で倒れた彼が「左手のピアニスト」として復活できたのはなぜ?です。
2002年1月、フィンランドの演奏会で最後の曲を弾き終え、立ち上がってお辞儀をした後脳出血で倒れ、手術ができない箇所だったため、1か月寝たきりでしたが幸い一命は取り止めました。しかし、右半身に麻痺が残り入院2か月目からリハビリを始めましたが、結局右半身の自由を失ってしまったのです。
普通の人間なら、身に起こった不幸を嘆き自暴自棄になるところですが、彼は違いました。まず、右半身不随を不幸ではなく新たな体験と受け止め、積極的にこの状態を楽しもうと心がけたのです。その結果リハビリも楽しく、新鮮な経験となり、彼は「絶望している暇なんてなかった」と言ってます。
そして、倒れてから1年以上過ぎたある日、あるきっかけから、ピアノに向かうと左手一本で弾いているのに音が立ち上がってくる経験をしたそうです。その時から左手の練習に熱中し、「左手の音楽」という新しい世界が開いてきたことを実感し、「僕は右手を奪われたんじゃない、左手の音楽を与えられたんだ」と自覚するようになったそうです。しかも、「左手一本で弾くことで、むしろ今まで以上に音楽に集中できるようになり、音楽っていうものの本質が見えてきた」とまで言っています。
両手が揃っていても、うまく使いこなせないことが多い私たちにとって、耳に痛い言葉です。

結局、以上のエピソードより見えてくる、「古い価値観に縛られない柔軟な思考と行動力」「相手に対する誠実な対応」「人生に対しての積極的で前向きな姿勢の維持」等々の姿勢が、これまでの彼の現役生活を充実させ、かつ長続きさせてきたように思います。
舘野泉は、米寿を迎えた今でも、年間50回はステージに立つと言っています。私達も、チャンスがあれば、是非演奏会に参加して、元気をもらいたいものですね。