以前このブログで『横浜・音楽はじめて物語』と題して「日本国歌の発祥は横浜であること」等々を紹介しましたが、今回はそれに続けて、「オルガン、ピアノなどの大型西洋楽器の国内最初の生産メーカーはどこか?」を中心に、『横浜・音楽はじめて物語②』として横浜との関わりを紹介していきたいと思います。
「オルガンやピアノの、日本の最初の生産メーカーはどこでしょう?」と問えば、ヤマハかカワイを想像する方も多いのではないでしょうか?ただそれは残念ながら正しくありません。
実は、元々は横浜元町で誕生し、工場は中区日の出町、販売店は中区馬車道にあった「西川ピアノ製造所」なのです。
そうです、横浜は、オルガン、ピアノ製造の国産メーカー発祥の地でもあったのです。
そう思うと、横浜でピアノを練習している皆さんも、今まで以上に練習に力が入りませんか?
西川楽器は、もともと三味線作りの名匠であった西川虎吉(1849-1920)が、1880年横浜の元町に創設した「西川風琴製造所」がルーツです。
横浜は開港後、居留民が持ち込んだオルガンやピアノの調律、修理及び販売の為、既に1870年代には外国人、及び中国人華僑による楽器ビジネスが存在していました。特に、オルガンやピアノの様に重量の大きなものは、それを運んでくる外国船の接岸と荷揚げが可能な港は開国後横浜港しかなかったこともあり、横浜に外国人の楽器商が集中したようです。
そんな状況の中、西川は三味線職人としての器用さと音感の良さを買われ、外国人楽器商のもとで、ピアノ調律、楽器製造のノウハウを学び、開国直後の貧しい国情の中で外貨の持ち出しを少しでも減少すべく、当時極めて高価だった輸入オルガン、ピアノの国産化に向けて楽器製造会社を自ら設立したようです。
そして、まずはピアノより製作費用が安いということからオルガン製作に挑戦し、1884年に初めての国産オルガンの製作に成功しました。これが国産オルガン第一号と認定されています。
1886年にはピアノの試作にも成功し、1887年に日の出町に工場を建設し、本格的にピアノ製造にも乗り出していくのです。その実行力、拡大戦略の速さには驚くばかりです。
1890年、東京で開催された「内国勧業博覧会」に、西川はピアノとオルガンを出品し、見事にピアノは有功2級賞、オルガンは有功3級賞を獲得し、名実ともに輸入品にも引けを取らないことを証明して見せたのですが、なぜかこの時、西川ピアノは国産ピアノ第一号とは認定されなかったのです。
表向きの理由は、主要部品のほとんどが輸入品であり舶来品の模造と判断され国産品とみなされなかったためと言われています。
しかしこの判断は、当時としても今でもおかしいですよね。
例えば皆さんもお使いのiphone(スマートフォン)なんかは、中心となる半導体は勿論、主要部品のほとんどがアジアを中心にグローバル調達されたもので、組み立て製造に至ってはEMS企業に丸投げしているにもかかわらず、誰もがiphoneはApple社製の製品と認めています。何かこの判断には納得がいきません。
それでは、公式に国産ピアノ第一号の栄誉を与えられたメーカーはどこでしょう?
結論から言うと、1900年に日本楽器製造(現在のヤマハ)が製造したアップライトピアノが国産第一号と認定されています。
確かにインターネットで「日本初のピアノ国産メーカーは」と検索すると、この1900年のヤマハのアップライトという記事で溢れています。
ヤマハより10年以上も先んじて国産ピアノを完成させた西川ピアノの「西」の字も出てきません。
当時のヤマハのアップライトは、主要部品はアメリカ製で、かろうじて響板とアクションが国産だったにもかかわらずです。
当然、ここまでこのブログを読んで下さった皆さんは、奇妙な感じがすることと思います。
当時の政・財界の癒着の匂いを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここではそれ以上の追求は控えましょう。
いずれにしても、オルガン、ピアノ共に日本初の国産メーカーは、横浜にかつて存在した西川ピアノであるという考え方があっても良いのではと思います。
※現在のヤマハのホームページには、簡潔に「1900年に、アップライトピアノの製造を開始した」と記しているだけで、国産第一号を謳ってPRしようという魂胆は見られません。念のため。
さて、西川ピアノのその後はどうなったのでしょうか?
1900年代も日本一のオルガン・ピアノメーカーとして順調に業績を重ね、1907年にはグランドピアノの製造にも成功、馬車道に開店した楽器店も当時の音楽好きの中心となっていたようです。
しかし残念なことに、二代目の息子がスペイン風邪で死亡、その翌年(1920年)には虎吉自身が死亡し、経営の跡取りが不在となり業務譲渡広告を出さざるを得ない状態になったようです。
当然そこに目を付けたのは、日本楽器製造(現在のヤマハ)です。1921年には買収を成功させ、日の出町の工場は「日本楽器横浜工場」としてヤマハの中で存続していくことになったのです。(工場自体は1936年に閉鎖されます)
結局、西川ピアノはヤマハに吸収されることになったのですから、国産ピアノ第一号はヤマハと言っても、あながち間違いではないような気もしますね。