横浜・音楽はじめて物語③〜ヴァイオリンと横浜〜

今回は『横浜・音楽はじめて物語③〜ヴァイオリンと横浜〜』として、ヴァイオリンと横浜の関わりについて紹介していきたいと思います。

前回の『横浜・音楽はじめて物語②〜ピアノと横浜〜』では、オルガン、ピアノ等の大型西洋楽器について話をしましたが、その中で、大型楽器ゆえ荷揚げ、運搬に必要なインフラは当時横浜港にしかなく、しかもニーズも横浜居留民が主だったゆえ、必然的に横浜がオルガン、ピアノの国産製造の最初になったと説明しました。

しかし今回は、一人でどこにでも運べるヴァイオリンですから、国産製造における地の利というものは、横浜には有りません。

確かにヴァイオリンの国産製造第一号は、当時東京深川の三味線職人松永定次郎が1880年に作ったものとされています。続いて第一号を参考に第二号を作ったのが、名古屋の三味線職人鈴木政吉(1859~1944)です。

鈴木政吉

彼の改良改善によりヴァイオリンは大きく楽器として進歩し、現在名古屋の大府市に工場を持つ国内ヴァイオリンシェア30%以上を誇る「鈴木バイオリン製造株式会社」に繋がり、政吉自身は「日本ヴァイオリンの祖」と呼ばれています。

鈴木政吉、1890年製作のヴァイオリン

政吉は13人の子沢山(うち2人は夭逝)だったようですが、その中の三男が、ヴァイオリンを学習する人なら誰でもが知っている、ヴァイオリニストでスズキ・メソードの創始者、鈴木鎮一(1898~1998)です。

鈴木鎮一

オルガンやピアノと違い、ヴァイオリンは弾いたからと言って正しい音がはじめから出るわけではありません。それゆえ正しい学習方法なり独習方法なりが必要になるわけです。鎮一も早くからこのことに気付いており、幼児期こそ教育の大切な時としてスズキメソードの普及に努め、現在国内では約20,000人の子供たちが毎日活発なレッスンを受けているそうです。

どうも、ヴァイオリン製造、教育に関しては、残念ながら横浜はなにも貢献していないようですが、ヴァイオリン音楽の鑑賞の方では「横浜はじめて」がありそうです。

まず、日本人が初めてオープンな場でヴァイオリンを演奏しているのを見て聴いたのは、横浜でした。

それは、日米和親条約を締結するためにペリーが2度目に来航した時です。(1854年)
場所は現在の横浜開港資料館前の開港広場周辺で、条約の合意締結を祝って繰り広げられたミンストレルショーの中にヴァイオリンが入っていたと言われています。

次は、現在の横浜市開港記念館の中にある講堂で、当時世界最高と言われたヴァイオリニスト3人が続々と来日し演奏会を繰り広げたという事実です。

おそらくこの3人が同じ舞台に立ったというのは日本で、いや世界でも初めてで唯一ではないでしょうか。

1人目は、1921年に来日したウクライナ出身のミッシャ・エルマン(1891~1967)
情熱的な演奏スタイルとエルマントーンと言われる美音が有名です。

2人目は、1922年に来日したロシア出身のエフレム・ジンバリスト(1889~1974)
アメリカのカーティス音楽院の院長を長く務め、江藤俊哉が門下生の一人です。

3人目は、1923年に来日したオーストリア出身のフリッツ・クライスラー(1875~1962)
3つの古いウィーン舞曲(愛の喜び、愛の悲しみ、美しきロスマリン)で超有名ですね。

当時3人は共にキャリアピークの時期での来日であり、全ての演奏会を聴いた居留民、日本人はさぞ満足したことと思います。

彼らは、1873年に竣工したグランドホテル(今のニューグランドホテルではありません)に宿泊し、開港記念会で演奏会をしたわけですが、どちらの建物も1923年の関東大震災で崩壊しているわけですから、3人が同じ舞台に揃うというのは本当に最初で最後だったわけですね。

1920年代初期に、世界的にも有名な3人がキャリアピークのこの時期に相次いで日本を訪問したのは、第一次大戦後ドイツ中心にヨーロッパが不況であったこと、それにひきかえ日本は戦勝国として好況を謳歌していたことに理由があるようです。(そうでなければ、彼らが極東の島国にわざわざ来ることもないですよね)

当時の開港記念館の講堂の席数は、1階2階併せて1000席(現在は消防法の関係か481席しか有りません)だったそうです。今だったらプラチナチケットですね。

この講堂は現在、通常は見学できないのですが、毎月15日は一般公開されるそうです。

皆さんも、是非3人が立った同じステージに上がってみてはいかがでしょう?
また一層とヴァイオリンがうまくなるかもしれませんよ。

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