音楽エッセイ|交響曲の父、ハイドン

今回のブログでは「交響曲の父」と呼ばれる、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn、1732年3月31日-1809年5月31日、オーストリア・ローラウ)を紹介したいと思います。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Wikipediaより)

音楽家を「~の父」と称するニックネームで呼ぶことは多くみられ、音楽界最高の称号と思われる「音楽の父」と言えば、ヨハン・セバスチャン・バッハを指し、同時代に活躍したヘンデルは「音楽の母」と呼ばれます。(父と母ではどちらが上なんでしょう?)

ラデッキー行進曲で有名なヨハン・シュトラウス1世は「ワルツの父」と呼ばれ、その長男で美しき青きドナウの作曲者ヨハン・シュトラウス2世は「ワルツ王」と呼ばれます。

そんな中で「交響曲の父」ハイドンの話です。

ハイドンが交響曲という形式を初めて生み出したわけではなく、交響曲という形式で作曲した先駆者が彼より前に存在したのに、なぜ彼が「交響曲の父」と呼ばれるのか、その理由を説明していきましょう。

ハイドンは1761年の30歳手前で、ハンガリーの大富豪エステルハージ家に仕えることになり、以後30年の長きに渡って、理解ある庇護のもとでオーケストラ音楽を追求する道が拓けました。

ハイドンが過ごしたエステルハーザ宮殿(Wikipediaより)

日常の職務としては生活の中で活用される音楽、言わば機会音楽を作曲し供給することであり、その中心的な哲学として「調和がとれていること」「聴きやすいこと」が求められました。

貴族の形式化された日常の中で、余暇として楽しむ音楽を作ることを期待され、ハイドンは見事なまでに職人技でそれに応えたと言われています。

まさに、職人仕事として作曲した「交響曲」も、番号が付いているものだけでも104曲も量産し、古典派以降の作曲家の中で断トツの数を誇ります。最初の頃はどうしても類型化するのが避けられず、どれも同じように聴こえますが、50番台を過ぎあたりから、標準的な楽章構成も固定し、明朗で明快で爽やかというハイドンらしさに溢れた曲が多くなります。

そうしたハイドンらしさが生まれたのは、交響曲を4つの楽章から組み立て、各楽章それぞれに特有な性格を与え、その型式を厳密に守ったことに由来すると思われます。

具体的には、
第一楽章:テンポはアレグロでソナタ形式
第二楽章:テンポはアンダンテで三部形式
第三楽章:テンポはアレグレットでメヌエット
第四楽章:テンポはアレグロでソナタ形式

で構成されています。

こうした形式は言葉のない交響曲のような長丁場の器楽曲を最後まで聴き通すための「杖」とも「地図」ともなり、音楽に安心して心をゆだねることができ、飽きずに聴くことができるようになりました。

こうした楽章の音楽的性格付けと形式が完了した時、交響曲は魅力あふれた将来性のある楽曲としてはじめてその地位を決定的に確立したと言えます。

それを成し遂げたのがハイドンですから、真の意味でハイドンを「交響曲の父」と呼ぶのがふさわしいと思います。 

これまで述べてきたことからも、ハイドンの誠実で温厚そうな人柄が想像されますが、実はハイドンほど死後に悲惨な目にあった音楽家もいないのではないでしょうか。

1809年、77歳でハイドンはウィーンで死亡し、ウィーンの墓地で埋葬されます。

1820年にあらためてエステルハージ家ゆかりのアイゼンシュタットの墓地に移すため墓を掘り返したところ、なんと遺体には頭部が付いていなかったのです。

ウィーンの警察が必死に犯人探しをしたところ、オーストリアの刑務所の管理人(頭蓋骨収集家)と、エステルハージ家の書記(ハイドンの異常な崇拝者)の二人が逮捕されました。

紆余曲折ありましたが、ハイドンの頭蓋骨はウィーン楽友協会の所有となり、一旦その博物館に収められました。

1954年になって、やっとハイドンの頭蓋骨はウィーンの博物館からアイゼンシュタットに運ばれ、2度目の埋葬が行われ、約150年ぶりにハイドンの遺骨は完全なものになったのです。

ハイドンの人柄を考えると、こんな不幸があったことは信じられませんが、事実なのです。

アイゼンシュタットにあるハイドンの霊廟(Wikipediaより)

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